夜霧とは?/ ディック
[ 1231] 夜霧の古城
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小生は船橋の人間である。生まれたのは、東京南部で神奈川に近い場所であるが、東京には通算5年くらいしかおらず、就職してから愛知、兵庫と住処を変えながらも、基本的には千葉県は船橋に居住してきた年数が長い。 しかし、船橋の中心はJR船橋駅の辺であろうが、そちらより東に住んでおり、習志野市も一部生活圏内のようなかたちで、習志野市と船橋市をあまり意識していない。そもそも、なぜ習志野市が船橋の一地名である習志野を市の名前として名乗っているのか分からないし、習志野市は船橋市に市町村合併で吸収されるものとばかり思っていた。 それはともかくとして、そんな地域に住んでいたために、小学校は小生の場合、近所のすぐ歩いていける小学校へ進み、中学校も同様であったのだが、近所の人の中にはわざわざ習志野市に越境通学する人がいた。同じ学年で、S君というのがいて、なぜか習志野市のT小学校に行った。小生も京成津田沼くらいまでは、歩いていけないこともなく、小学生の頃はそのあたりまで遊びにいったのであるが、T小学校をみて、ああここがS君が行った学校かと思ったものである。当時、T小学校にはある噂があり、子供ごころにも怖いと思ったが、その校舎は小生が通っていた小学校と同じように古く、木造2階建てくらいの建物で、金網越しに校庭をみると、なんとも狭いなあ、うちの小学校とたいして変わらないなあという印象であった。だから、なぜS君がわざわざその学校に越境して通っているのか、ますます分からなくなった。 ずっと、後になり、大人になって「T小学校は京成津田沼駅の南側にあったよな」と地元出身の友人に言うと、みな違うという。実際に場所を確認しても、それはJR津田沼駅の南であって、京成津田沼駅からみると西側の坂の上の高い場所にある。京成津田沼駅の南のほうから移ってきたんじゃないかというと、昔からその場所にあるという。 自分の記憶では、T小学校は京成津田沼駅のすぐ南にあり、場所は平坦な地形でまっすぐな道に面していた。T中学校の間違いじゃないかとも思ったが、それは津田沼町だった頃には存在したが、津田沼町が習志野市になってからは習志野一中、二中というネーミングで、小生の小学校時代にはすでにT中学という名前ではなくなっていた。また、その該当する中学校は全然違う場所にある。 単なる小生の記憶違いなのだろうか。JRと京成を間違えていただけだろうか。しかし、校庭の広さをみると、今のT小学校は小生が通っていた小学校よりはるかに広く、倍ほども広い。昔見たT小学校の校庭は狭かったと覚えている。この矛盾はどうしたわけか。 ある日、習志野の図書館で借りて、コピーした本の挿絵で、昭和3年の津田沼の絵図があり、そこに描かれていたT尋常小学校はまさに小生が記憶していた場所にあった。地形や校庭の大きさも、それなら納得できる。 やはり移転していたのだが、移転した日付はその小学校のHPによると小生が生まれた年に移転完了したことになっており、当然ながら小生の小学生時分には移転後の場所にあったことになる。では小生が見たと思っていたものは、何なのか。古い校舎が壊されずに残っていたのだろうか。もし、もう古い校舎もなかったとしたら、幻を見たのだろうか。 新京成の二和向台と滝不動の間と思うが、小学校の横に土塁状のものがあるのを電車に乗りながら見た。新京成線にはたまにしか乗らず、しかも津田沼から北習志野より先は殆ど乗ることがないため、今まで気付かなかった。それは勢子土手であり、江戸時代の牧遺構であることを最近知った。 先日鎌ヶ谷に行く用事があり、初富稲荷がすぐ近くにあったので、その境内に建った開墾記念碑をみた。これは「初富開拓百ヶ年記念碑」とかかれ、題字は当時の友納千葉県知事である。 下総台地の集落をのぞいた、大昔は原野であった部分をほぼ占める広大な牧は、中世以来軍馬の供給地として形成され、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。これは農業を振興させるという意味もあったろうが、士族授産や窮民対策の意味が強かったのだろう。 入植者は旧武士階級のほかは、東京にいた非農業の窮民であるが、彼らも元は農民であったものが多い。入植はしたものの、慣れない農作業、厳しい自然 環境に加え、新政府側の不手際もあって、開墾は困難を極めた。結局、当初の入植者は耐え切れずに少数しか残らず、少数残った東京窮民と近辺の農家の次男三男が最終的に開墾を成し遂げた。しかし、明治新政府、開拓会社は、開墾に苦闘する人々を途中で見捨てるような動きをしたため、開墾を成し遂げた人々の心境は複雑で、いくつか建てられた開墾記念碑のなかには、銘文がまったくないものもある。 初富、二和、三咲は新京成の駅名にもなっているが、近接した場所である。四番目の豊四季をとばせば、五香、六実も比較的近い。 初富周辺には、牧の遺構もある。たとえば、小金牧のうち、中野牧というのがあり、その込跡がある。これは、ぐるりと土塁が取り囲んで、馬を捕り込むもの。これは、「捕込(とっこめ)」ともいう。土塁が高く、またその製法は中世城郭と殆ど同じようであるから、よく中世城郭跡と間違えられるそうである。今も、中世城郭とされているもののうち、いくつかは「捕込」である可能性があるという。以前、鎌ヶ谷市道野辺にある道野辺八幡神社の境内が中沢城跡で、周辺にある土塁が城の土塁であるとされていたが、それは間違いで、土塁は牧遺構らしいということである。それで、中沢城は、未だに明確な比定地がない。 去年の7月16日、第5回千葉県北西部地区文化財発表会「Good Job!!」−昔の人のものづくりテクニックを学ぼう!−(開催場所:鎌ケ谷市中央公民館)という催しに行ったとき、発表会のあとで国の史跡となった野馬土手、すなわち小金中野牧の込跡の見学会もあったのだが、小生愛知に帰らねばならず、そのときには見ることが出来なかった。 中野牧込跡は、国の史跡の指定を受けているが、野馬土手はどんどんなくなっているらしい。それは住宅開発のためであったり、道路建設などの都合もあるだろう。かつてはありふれた光景であったのが、開発によって変貌し、貴重な文化財が失われるのは残念なことである。 貝柄山といっても、山ではない。写真の犬を連れた女の子も同じ方向を歩いているが、むしろ低地に向かっている。実は貝柄山とは縄文時代に貝塚があった場所であり、谷津田のような低湿地であったそうだ。 鎌ヶ谷、船橋には中野牧込跡以外にも、いろいろ牧遺構はあるようである。とりあえず、一度新京成電車を途中下車して二和の勢子土手をみてみようと思った。 最近、仕事で何回か、半田・武豊から外に出て、東海市や名古屋に行く機会があり、小生東海市で気になる地名を目にした。それは「城之腰」というもの。車で東海市の物流会社に行ったときに、車のなかから交差点にかかった標識で見たが、以前から半田街道に「内堀南」とか「白拍子」という交差点が近くにあり、中世城郭かなにかあったらしいと気になっていた。「城之腰」の読み方は「しろのこし」か「じょうのこし」か知らなかったが、どちらにせよ明らかな城郭地名である。 調べてみると、その「城之腰」の東側には、「城山」という地名があり、その「城山」に木田城という城があったことがわかった。実際に現地にいって、城跡周辺をあるいてみると、まず「城之腰」は「しろのこし」とよむことがわかった。その交差点から東にのぼっていった「城山」という場所に木田城の主郭があるというが、現在は住宅地になっていることがわかった。途中、浅間神社の祠があったが、そこも一段高くなっていて、防御施設があったかもしれない。また、土塁の残欠らしきもの、竪堀らしきものを見たが、不正確なことを書いても仕方がないので、図書館ででもよく調べてから、別途書くことにしたい。 この木田城こそ、今の東海市域の主要部を戦国時代に支配していた荒尾氏の居城であった。木田城は鎌倉末期に一色左馬助が築城したものを、戦国期に荒木空善が改修して居城とした。それは、今川方の知多侵攻に備えたためといわれる。荒尾氏というと、鎌倉幕府の御家人であった家があったが、戦国期に荒尾空善からはじまる系譜とは別であると思われる。その空善以降の荒尾氏は戦国時代を生き抜いて、池田輝政を祖とする鳥取藩池田家の家臣として存続した。その先祖は在原業平というが、それは伝承上のことで、実際には在地土豪であったと思われる。 実は室町時代には、当地には富田氏という氏族(尾張守護であった土岐氏の家臣という)がいたが、戦国期に緒川の水野氏が進出するに及んで、花井氏が水野氏と組んで富田氏の富田城を攻め、富田氏を退去させたか、あるいは、この荒尾氏が水野氏と結んで、富田氏を追放したらしい。荒尾氏は一応独立した豪族ながら、水野貞守から知多半島におおいに威をふるった水野氏にしたがっていたようである。 この荒尾氏は天文23年(1554)1月、今川方が緒川の北、現在のJR尾張森岡駅近くに築いた村木砦をめぐった戦いにおいて、織田信長が自ら軍勢を築いてこれを攻めた際、途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために、織田勢は一旦、海路これらの拠点を避けて、村木砦に向かうことにした。そして、1月22日、織田勢が熱田湊から船で馬走瀬(東海市横須賀)の浜(可家湊の辺り)に上陸、木田城に一泊した後、1月24日払暁、村木砦を襲った。可家の湊とは、以下の通り、万葉集にも詠まれた古くからある湊であった。その可家の湊があったあたりに建つ諏訪神社には、万葉の歌碑がある。古い歌碑は字が薄れてきたために、新しい歌碑も建っている。 ところで、荒尾空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、村木砦の戦いの頃の当主は、大野佐治氏から養子に入った善次である。 大野の佐治氏や寺本の花井氏は、知多半島に今川家が侵攻した際に今川氏に付いたようで、花井氏はその後も桶狭間合戦にいたるまで今川方であり続けたのに対し、佐治氏は荒尾氏と養子縁組をするなど、途中で織田方に懐柔されたらしい。 荒尾善次は信長の軍を迎え、織田の軍勢は木田城だけでなく、周辺の長源寺、観福寺(高横須賀町山屋敷)にも分かれて駐屯、そして村木砦を攻めるのであるが、荒尾氏もこれに加わったとされる。「城之腰」の交差点を「城山」とは逆に西へむかうとすぐに観福寺があり、しばらく歩くと長源寺の門のあたりに出る。長源寺は、延徳4年(1492)、大中一介禅師により開山された曹洞宗の寺。観福寺は知多でも有数の古刹で、寺伝によれば大宝2年(702)行基の建立といわれている。その沿革も宝徳2年(1450)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明。しかし、相当の古寺であることは間違いなく、尾張徳川家の尊崇をうけ、文化財も多数所蔵している。また、当時は今より寺域が広く、「城之腰」交差点まで広がっていた。こうした寺院は、戦国期には荒尾氏の出城のように使われた可能性もある。 一方、寺本の花井氏は、代々現在の知多市の寺本城を居城とした。寺本城は青い瓦葺であったといい、青鱗城ともいう。花井氏は尾張守護であった土岐氏の被官だったというが、寺本の津島神社には、寺本城主花井信忠が嘉吉3年(1443)5月に津島社を建立した棟札が今も保存されている。戦国期には花井播磨守、勘八郎の二代が寺本城主であった。この花井氏は、今川勢の知多侵攻に伴い、今川方となっていた。天文23年(1554)1月25日、村木砦攻めに勝利して帰った、織田軍により攻められ、寺本城下は戦火にあい、甚大な被害を受けた。桶狭間の戦いの後は、花井氏は織田信長に従い、大野城主の佐治氏の大野水軍とともに、寺本水軍として西浦の海で活躍したという。 桶狭間合戦の際の伝承として、織田方である荒尾氏の勢力圏内の可家湊、前述の諏訪神社近くに、どういうわけか「今川義元の塚」がある。それは長源寺、観福寺とも近い、今の横須賀小学校に隣接した場所にあり、その土地は「今川」と呼ばれている。 伝承では、桶狭間の戦いで敗れた今川方の家来たちが、この地まで逃れ、義元の遺体を現在はない永昌寺に葬り、墓を守るためにこの地に住み着いたという。その子孫で「北川」「早川」という姓の者の子孫がいまでもいるという。 今川義元の首級は織田勢が首実検のために持ち帰ったが、それを鳴海城を守った岡部元信が強くアピールし、岡部が駿府に帰還させたという。また、胴塚も豊川の牛久保にあって、義元の嫡子氏真が供養したりしているので、そこに遺骸が葬られているのだろう。方角も桶狭間からは西にあたり、織田勢の多い当地に今川義元の塚があるのは、もちろん信じがたい。 面白いのは、傍らにある石塔に「今川義基墳」とあること。「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われているが、一字替えたところで、すぐ分かるのではないか。 今川塚近くの地に、戦いに敗れた今川義元の家臣が逃れてきたが、ついに息絶え、村人が12人の亡骸を葬ったとされる十二塚という地名も残っているが、落ち延びてすぐに全員死んだとも思えない。 元治元年(1864)には,今谷要蔵という船頭が,伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして,塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っており、確かに今谷要蔵の寄進した石造物が残っていた。 よくわからないが、今川方の敗残兵が桶狭間合戦の後、当地に漂着した。今川方であった花井氏の本拠である寺本に逃げたのかもしれないが、着いたところは、まだ織田方の可家湊であった。しかし、それを憐れんだ地元民がかくまったか何かで、彼らは当地に土着した。その伝承が残り、今川義元に結び付けられたのではないか。 終戦直前に現在の愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠は、米軍機による爆撃にあい、壊滅的な被害を被った。そして、そこで働く、海軍軍人・軍属工員、徴用工、そして多くの勤労動員された人々が亡くなったのである。 1945年(昭和20年)8月7日午前2時40分から3時10分にかけて、グアム・テニアン・サイパンを米軍B29爆撃機、4爆撃団、計124機が飛び立ち、硫黄島からは護衛のP51戦闘機100機が飛び立って、豊川海軍工廠を目指した。同日午前10時13分、最初の空襲が始まり、4つの爆撃団は3つの編隊を組み、合計3,256発の500ポンド爆弾を10時39分までの26分間投下した。8月7日といえば、広島に原子爆弾が投下された翌日であり、長崎への原子爆弾投下とソ連参戦のあった8月9日の2日前である。まさに終戦直前ともいうべき時期に、米軍は気息奄々たる日本に駄目押しの如く、非戦闘要員である多くの職員・工員が勤務する海軍工廠への大規模爆撃を仕掛けてきたのである。この空襲に対し、日本軍戦闘機の迎撃はなく、御津町大恩寺山の高角砲が一斉射撃を行い、工廠内の高角砲からも射撃したが、大恩寺山の高角砲により一機が被弾、帰還途中の硫黄島付近で墜落したのみで、ほとんど無防備の状態であった。豊川海軍工廠では、この空襲により2,670名の人が亡くなったとされている。しかし、朝鮮人徴用工の被災者の実数が正確に把握されているとは言い難く、実際には3,000名以上の貴重な人命が失われた模様である。当日、通常通り勤務していた彼らはわずか20数分の間に爆撃と機銃掃射にさらされ、工廠は阿鼻叫喚の巷と化した。 防空壕に入ってもなくなる人はかなりおり、工廠周囲の堀の中に遺体が折り重なるようになっていたという。現在、名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地内となっている火工部跡地の北西部分に、爆弾が落ちた跡があるが、直径3mほどで人が一人立って頭が出るか出ないかの深さ(1.5m以上)がある。さらに、残存する火薬庫や材料倉庫にも爆弾の破片が当たった跡や機銃で撃たれた跡が今も残っている。この防空壕は、指揮官壕以外は、一般に海軍の基地にあるようなコンクリートで固められ、半地下式の頑丈なものではなく、多くのものが地面を掘って天井に丸太などを渡して、土で覆ったようなもので、上からみるとCの字の形をした3mほどの長さのものか、人一人が隠れることのできるタコツボ状のものである。巨大な工廠の割には、防空壕などは貧弱であるといえる。すぐに生産活動に戻ることができるようにわざと簡素にしたといわれるが、これは軍の人命軽視のあらわれともいえる。特に、この工廠には多くの女子挺身隊員、動員学徒が働いていた。年齢的には現在の中学生位の年少者も多く、まだ人生の喜び、楽しみも知らない、そうした年少者からも多くの犠牲者が出た。実際に豊橋市立高等女学校から勤労動員で、豊川海軍工廠で働いていて、被爆した方の話を、工廠跡の見学会の際に小生のHPに協力してくれている親戚の森-CHANが聞いてきたが、それによると、「空襲警報が出たときには、既に頭上にB29の編隊が飛んでいた。そして、そのうちの1機が高角砲により被弾していた。その編隊を見た海軍の将校さんが『総員退避』と叫び、ふだん入場していた北東門ではなく、そのときにいた信管工場に近い正門から逃げた。防空壕に隠れたが、幸いに無事であった。防空壕に隠れた人でも、爆撃を受けたり、生き埋めになって死んだ人が多い。500ポンド爆弾が落ちた時の爆音は、腹の皮が震えるくらいに響いた。正門の近くで、整列した状態で死んでいる人たちがいた。防空壕に入って死んだ人もいれば、防空壕から出て機銃掃射で死んだ人もいる。私は正門に逃げたのが早かったから助かったが、爆撃の激しかった正門や西門に逃げて助からなかった人は多い。工廠では、部署によって逃げる門が決められていた。西門は、『命令がないと開けられない』と門番が頑張っていたので、逃げ遅れたり、門ではなく柵の下を這いくぐりモンペがボロボロになりながら北へ逃げた人もいる。北門や北東門に逃げた人は、割合助かっている。生死は、殆ど運次第であった。」という。その豊橋市立高等女学校の動員学徒からも、空襲の犠牲者は出た。豊橋市立高等女学校四五会が編んだ「最後の女学生−わたしたちの昭和」には、その生々しい体験が綴られている。 豊橋高女出身の女医、Wさんたち元勤労学徒の皆様には、いろいろお話をうかがった上に本までいただきました。あらためて御礼申し上げます。 自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。 小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。 森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。 一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。 江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。 そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。 西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。 可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。 そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。 森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。 しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。 多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。 そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。 桶狭間合戦における総大将今川義元の不慮の戦死、それによる今川勢の敗退は、海道一の弓取りといわれた今川義元を失っただけでなく、三河、遠江を支配下においた、駿河今川氏にとって権威を失墜させるという、大きなダメージとなった。 もとは尾張那古野城は、今川氏豊が守っていた。天文7年(1538)、これを織田信秀に奪われて、今川氏豊は追われて京に逃げ、今川は尾張における拠点を失った。以来、今川方は鳴海城主であった山口教継を寝返らせたり、山口教継の調略で大高城を手中に収めたりして、尾張に楔を打ち込み、知多半島の寺本の花井氏などの諸士を幕下に置くにいたる。 一方、織田信秀の死後あとを継いだ信長は、村木砦では自ら軍勢を率いて今川勢と戦い、今川の手に落ちた大高城の周りには鷲津、丸根の砦を築き、鳴海城は善照寺砦、中嶋砦で包囲した。 永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川家当主を子の氏真に譲った、今川義元自らが出陣し、鳴海、大高の囲みを解き、さらに清洲に攻め寄せ、尾張を攻略する目的で戦われたのであるが、あえなく今川義元自身が桶狭間で戦死するという事態となった。 その桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。下記は天文20年(1551)の知多半島の勢力図(「戦国知多年表」木原克之著所収)であるが、みられるように今川勢が三河方面(たとえば重原城)から資材を運んで、砦を築こうにも、刈谷・緒川水野氏の勢力圏を通ることなしに村木までたどり着けない。また村木は緒川の北に位置し、緒川水野氏の勢力圏である。 天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。 もう一つ、動向がよく分からなかったのが、大高城にいた水野大膳亮忠守である。その父は和泉守忠氏といわれるが、忠氏という名乗りは、大高城址に程近く水野大膳がその父和泉守の位牌祈祷所として開創したという春江院に残る系図に「忠氏 大膳後和泉守大高城主 弘治二年辰三月廿日卒 号春江全芳」とある(『張州雑志』第一巻に記載)のみで、実際は「近守」が正しいという。その水野和泉守の子大膳亮忠守は、桶狭間合戦の前、永禄2年(1559)迄に大高城が今川方の手に落ちると、どこかへ退転した。それは緒川か刈谷であろうと思っていたが、ヘロン氏によると、水野大膳亮忠守は刈谷古城にいたのだそうである。この水野大膳亮忠守も、桶狭間合戦に登場していない。水野大膳亮忠守の子は大膳亮吉守で徳川家康に仕え三千三百石、吉守の子、大膳亮正長は織田信長、徳川家康と仕え、大高城に居城するも関が原合戦で負傷しなくなった。天正13年(1585)の『織田信雄分限帳』に「大高郷 水野大膳」とあるのは正長か。忠守のもう一人の子正勝は織田信長に仕えた。正勝の子は、宗勝で、織田信雄に仕えた後、徳川家康の家臣になっている。何れの系統も徳川将軍家直参となり、大高水野氏は旗本として残ることになるが、刈谷・緒川の水野氏と、桶狭間合戦で行動が分からないことやその後の動向までよく似ている。 織田・今川の両雄に挟まれていたのは、松平も水野と同様であった。しかし、松平元康、のちの徳川家康は、石ヶ瀬合戦でも、桶狭間合戦でも、明確に今川方にたった。しかし、桶狭間合戦後は、明確に今川方を離れ、今川氏真の軍勢と戦っているのである。 その画期がいつかという点については、議論の分かれるところである。従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた。 しかしながら、今川氏真は義元の生前すでに家督を譲られており、氏真自身も桶狭間合戦後、功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、戦死した家臣の子には家督相続させ、所領の安堵状などを発給するとともに、寺社にたいしても旧来の特権を改めて安堵するなど、敗戦のショックによる動揺を抑え、領国経営を進める努力をしている。たとえば、岡部元信には鳴海城死守の戦功を賞し、旧領北矢部、三吉の地を返す判物を出しているし、戦死した松井宗信の子、宗恒には遠江国の所領を安堵している。少なくとも、今川家の威信が大きく低下したなかで、最後には縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。これは、今川氏真が後世言われるほど凡愚でなかった証明にもなるだろう。 一方、家康は大高城を永禄3年(1560)5月19日の合戦当日の夜引き払うと、一路岡崎に向かい、以下の『三河物語』の記述にあるように、大樹寺にいったん陣を張り、今川勢が岡崎城から出て行ったのを見計らって「捨城ならば拾わん」と、早々に岡崎城に入っている。非常に鮮やかであり、その時すでに今川からの自立を目論んでいたように思える。 「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」 つまり、前回述べたように、岡崎入城自体、駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえてそうしたのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、この難局を乗り切るのは氏真では無理だろう、今川の呪縛からの脱出は今が好機との計算があったと思われる。そして、今川方の動向も見据えた上で、岡崎での独立を考えていたのだろう。 岡崎に戻った家康は、旧家臣団の掌握に努め、義元の代に今川の領国にされていた碧海郡、加茂郡を確保するために積極的に動き出す。これは永禄3年(1560)中のことであり、それが今川氏真との対立を招くことになる。翌永禄4年(1561)1月には、両者の対立を収めようと将軍足利義輝が、いろいろと手を尽くしたほどである。したがって、松平元康、後の徳川家康が今川氏の呪縛から離れ、独立のための行動を起こしたのは、意外にはやく、永禄3年(1560)の6月以降年末までのどこかになる。そのことについては、また次回。 豊川牛久保に、今川義元の胴塚と称されるものがある。それに関し、牛久保まで義元の家臣が遺骸を運んだが、追撃にあい、やむを得ず、大聖寺に手水鉢を目印に葬ったという伝承がある。そんなところまで織田軍が追撃してきたとは考えられないが、その伝承が気になる。実際、大聖寺に義元の遺骸を埋めたなら、単に新暦6月の暑くなる頃で腐敗が進行していたためと考えるのが最も妥当で、他に遺骸を運んだ家臣が土地の者であったとか、その家臣が疲労のためやむなく埋めたとか、いろいろ理由は考えられる。そこが本当に義元胴塚かは不明なるも、今川氏真が父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えたと言うところから、なまじ嘘でもなさそうである。では、追撃(もしくはその風聞)があったとしたら、三河で今川家に敵対する勢力があったのか、これは桶狭間合戦直後の話として伝承されているものの、松平元康の永禄3年(1560)中の勢力拡大のための各地転戦で、東三河にまで矛先を向けたという伝承ではなかろうか。 明治初年、当時の陸軍はフランスから招聘したルボン砲兵大尉の指導のもと、佐倉藩の「火業所」を拡充し、砲兵の演習場とすることを計画、実施した。それは、射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場としたものである。このように、現在の千葉県佐倉市下志津原には1886年(明治19年)に開設された陸軍砲兵射的学校を中心に陸軍演習場(射的場とも呼ばれた)があって、南の四街道市(1897年:明治30年に陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称、移転)とあわせて砲兵のメッカであった。陸軍砲兵射的学校の跡地には、「日本砲兵揺籃の地」という藤江恵輔陸軍大将の立派な揮毫による石碑がある。これは戦争遺跡について書いた書物やHPでも取りあげられ、知るひとぞ知るものになっている。そのかげに隠れているが、下志津原を西にバス通りを進んだ西志津にも戦争遺跡がある。<陸軍砲兵射的学校の碑> それは戦車壕の跡。ちょうど西志津小学校の裏手にある公園に、その跡が残っているが、以前はその付近一帯にあったらしい。小生、その場所がなかなか分らず、コンビニの店員さん、付近の主婦の方お二人と、近隣の人に聞きながらたどり着いた。その前に行った陸軍砲兵射的学校の碑についても、タクシーの運転手にテニスコートまでと言ったにも関わらず、離れた場所で下されたため、農作業をしていた農家の方に聞いて、なんとかたどり着いたのだが、それはともかく。その壕とは、1mほどの高さに土盛され、その頂上から深さ2.5mほどの穴が掘られた長方形の壕であったらしいが、現存するものは穴はふさがれてしまい、ちょうど公園の築山のようになっている。その周辺は「芋窪」という地名で、その名の通り、芋がとれるような農地もあったのか分らないが、現在の西志津8丁目南端の台地上で開発前は山林だったという。しかし、その面影はなく、今では瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その公園も、「芋窪」の名を冠しているが、新興住宅地によくある公園にしか見えない。つい最近(2007年12月2日)、この地に来たが、楓の紅葉が美しかった。ここが、戦車壕のあった場所というのも、立札もなく、おそらく住民の方も知らないのではないか。<戦車壕跡〜北から見た> <戦車壕跡〜南から見た> なお、その戦車壕を使った訓練は、千葉穴川の陸軍戦車学校(元は習志野にあったが移転、1940年には千葉陸軍戦車学校と改称)、あるいは習志野の戦車第二連隊(1933年に千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊が発展改組)が行っていたようである。その戦車第二連隊の母体と成った千葉陸軍歩兵学校はわずかに裏門跡の遺構と記念碑があるが、穴川の千葉陸軍戦車学校は遺構とて残っていない。習志野の戦車第二連隊は、元々騎兵第十四連隊が駐屯していた場所に、騎兵第十四連隊が出て行ってから入ったが、現在は日大生産工学部の敷地になっている。その戦車第二連隊の碑が、日大生産工学部にあり、許可を得て立ち入り、写真も撮らせてもらった。<日大生産工学部正門> <日大生産工学部にある戦車第二連隊の碑> ちなみに、その碑文は以下。連隊の連の字が旧字体になっているが、原文のままとした。開設から終戦にいたる経緯が割合簡潔に書かれている。「戦車第二聯隊の跡 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。 河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。 戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。 昭和六十三年八月一日 戦車第二聯隊会 」戦争遺跡をめぐって困るのは、それが書かれた文献などはあっても、場所を正確に分りやすく書いたものが少ないこと。最近では、タクシーの運転手もよく道を知らず、乗ってから「しまった」と思うこともしばしば。そういう場合は、地元に長年住んでいそうな農家の人や商店の人に聞くしかない。今回、佐倉市志津方面を訪ね、一部その内容は、「佐倉市の戦争遺跡2」に載せたが、結構色々な人に道を聞いたり、お寺では西南戦争の戦死者の墓の場所を教わったりした。皆、親切に教えていただき、大変お世話になった。そういう人たちが、このHPを見ているとも思えないが、改めて感謝申し上げる。 今川義元が桶狭間で討たれ、今川勢が尾張の喉元まで迫った戦は、あっけなく幕をおろした。その後の今川勢譜代の連中は、鳴海城をよく守った岡部元信を除き、勝手に引き揚げてしまい、大高城に兵糧入れして、そのまま守将となった松平元康、後の徳川家康は、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された。もし、大高城を織田勢が総掛りで攻めたなら、大高城も落城したであろう。その場合には、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。 この孤立した徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたという説がある。あるいは、水野信元の使いが桶狭間の合戦の次第を知らせてきた、しかし家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。 「大高の城の漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆる所 参州碧海郡刈屋の城主水野下野守信元より浅井六之助道忠を以って義元の戦死を告、且明日信長来たり攻べし、夜中城を避て帰国せらるべき旨を達す。神君曰く野州は伯父といえども織田方なり。必ずも信ずべからずとて、先ず道忠を虜にし、其実を得て去ベキ旨を宣う」 とある。野州とは下野守水野信元を意味し、いかに伯父といっても織田方なので必ずしも信じられないと徳川家康は言い放ち、浅井道忠を捕虜にして、今川義元討死の事実を確認してから大高城を退去すると言ったと、書かれている。 これを筆者は、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから疑義があると前にも述べた。いかに身内であっても、今川方の武将を、織田方にたって今川勢と合戦もしてきた水野信元が助けるのは、やはり納得しにくいものがある。しかも、桶狭間合戦後には、徳川家康と水野信元は石ヶ瀬で合戦を行っているのである。 大高城の徳川家康に、今川義元が討たれ、今川勢が負けたことを知らせたのは水野信元という説は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」によるものと思われる。 「義元ハ打死ヲ成サレ候由ヲ承候。其儀二於てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤之由各々申ケレバ、元康之仰にハ、タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモ聢トシタル事ヲモ申来タラザルに、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其上、人之サゝメキ笑種に成ラバ、命ナガラエテ詮モ無。然バ、何方よりも聢トシタル事無内ハ、菟角に退カせラレ間敷ト、仰除テ御座候処え、小河より水野四郎右衛門尉殿方カラ、浅井六之助ヲ使にコサせラレテ、其元御油断ト見えタリ。義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄成ラルベシ。今夜之内に御支度有テ、早々引退ケサせ給え。然ば我等参テ案内者申スベシ由ヲ申越サレ候えバ、六之助、主之使に来りて申ケルハ、我等に御案内者申て、早々御供申せ。信長押寄給ハゞ、御六ケ敷候ハント四郎右衛門申越サレ候間、我等に三百貴下サレ給え。御供申サントテ、知行ヲネギリテ、御案内者ヲ申ケリ。 水野四郎右衛門尉殿ハ、腹ヲ立、憎奴バラメ。成敗ヲイタシ度ト申サレ候え共、敵味方之事ナレバ成敗モ弄。大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」 これによると、徳川家康のもとにはすでに今川義元が討たれたらしいという情報が伝わっていたが、それが確かなものか判断しかねていた。その頃、水野信元から浅井六之助道忠が使者として派遣され、浅井六之助は「今川義元が討ち死にしたのは事実で、明日には織田信長の軍勢が押し寄せてくる」と述べ、三百貫をくれればご案内すると金をゆすりとろうとした。その願い通り、浅井六之助はご案内役をつとめたが、そのことを知った水野信元は立腹した。家康が岡崎に入ると、今川勢はまだ岡崎城にいたが、城から退散したがっていた。家康は大樹寺を本陣と定め、兵を休めた。今川勢は無断で岡崎城から退散し、それを知った家康は「捨城なら拾おう」と言って、城へ移った。この最後の「捨城ナラバ拾ハン」という言葉は、いろいろな劇や映画でも有名である。 この「三河物語」は、大久保彦左衛門が自分の子孫に受け継ぐために書いたものであり、世の中に公開する目的で書いたものではないとされる。そして、一部明らかな記憶違いなどを除くと歴史的事実の記述も多く、史料としての信憑性も比較的高いという。しかしながら、桶狭間合戦は永禄3年(1560)の合戦であり、大久保彦左衛門はその永禄3年(1560)生まれである。したがって、桶狭間合戦については、大久保彦左衛門が直接経験したものではなく、その記述も伝聞によるということになる。しかし、大久保彦左衛門は、それが事実と思って書いたのであろうから、「三河物語」が成立した元和年間には徳川家康の周辺では通説になっていたのであろう。 徳川家康が大高城から脱出した頃、鳴海城の岡部元信は、今川義元の首級をもらうという条件で鳴海城を開城し、駿河を目指して進んでいった。その途上、岡部元信は刈谷城を襲い、城主水野藤九郎信近を討ち取っている。 とあり、はかりごとをもって刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者を討ち取り、城内に放火したことがわかる。また、上記文書は今川氏真の発給した岡部元信の所領安堵状であることからも、氏真が合戦後に失われた家中の統率を取り戻そうと、領国経営に努力していたことが分かる。 桶狭間合戦において、水野氏本流である、緒川刈谷水野氏の動向がよく分からないが、唯一この事跡のみが、古文書にもあり、歴史上表面化している。 そもそも、水野氏本流、特に水野信元は永禄元年(1558)の石ヶ瀬合戦においても、積極的には動いていないふしが見られる。またそれに先立つ村木砦の戦いでは、本来表にたつべき水野氏よりも、織田信長自身が前面に出て、今川方と戦っているのである。その際に出動した水野氏は水野信元ではなく、緒川水野氏の流れではあるが、布土城主となった水野忠分であるという。桶狭間合戦では、水野信元は織田方でありながら、同時に今川方にも場合によってはつくような日和見をきめこんでいたのかもしれない。 そう考えると、大高城の徳川家康の脱出を助けることは、まったく考えられないわけではない。もともと、水野氏は信元の先代、忠政の代には、今川・織田両家によしみを通じており、松平と水野が姻戚関係を結んだのも、水野氏の両雄に挟まれた不安定な境遇を象徴しているといえる。信元の代となり、織田方であることを鮮明にしたものの、村木砦を橋頭堡として今川氏が尾張獲得に乗り出すと、常に今川方の動静を注視していたのはもちろんである。もし、水野信元が徳川家康に浅井道忠を使者として送り込んでいたならば、家康に織田方へ寝返るように工作するとか、もし合戦の勝敗がつく前なら、逆に自らが今川方に密かに通じようとして、その使者として送り込んだという可能性はある。それが、家康に取り込まれ、道案内をさせられたとすれば、三河物語にあるように水野信元は怒っただろう。だが、以前に述べたように、徳川家康は大高川を下って、伊勢湾に出て海沿いを大野か常滑に上陸し、坂部を経たかどうかは分からないが、成岩浜から三河にふたたび海路を使って戻ったと信じるものである。 また、松平元康、後の徳川家康が、大高城で今川方の敗北をいつまでも知らないでいたことはありえず、目と鼻の先にある鷲津砦や丸根砦にいた朝比奈、鵜殿といった今川勢が引き揚げるのを見ていたはずであり、今川勢に異変があったことは分かっていただろう。それでも大高城に留まっていたのは、本来今川義元が大高城に入るのを迎えることになっており、今川義元本隊はどうしているのか、またその他の隊の状況はどうか、織田勢の動きはどうかと、合戦の動向を見据えた上で、その次の行動を起こそうとあえて慎重になっていたと思われる。そして、合戦の動静を探らせていた自分の部下、それは鳥居元忠といわれるが、その部下が戻ってきて、もたらした情報により、退却を決めたのに違いない。 しかし、なぜ今川義元が討たれたことで、今川勢はかくももろく崩れ、駿河などへと敗走していったのだろうか。それは、一つには今川勢が譜代の勢力だけでなく、遠江、三河の外様衆も多く含まれる混成部隊であり、多くの重臣も失って、指揮命令系統が寸断されたためであろう。 桶狭間合戦では、今川義元をはじめ、蒲原氏政、久能氏忠、浅井政敏、三浦義就、吉田氏好、葛山長嘉、葛山元清、江尻親良、岡部長定、藤枝氏秋、牟礼泰慶、関口親将、松井宗信、斎藤利澄、井伊直盛、福平忠重、庵原忠縁、庵原忠春、庵原忠良、加藤景秀、鳥居直治、富塚元繁、由比正信、松平惟信、瀧脇松平宗次・長澤松平政忠、政忠の弟松平忠良、その他、主だったもの583人がなくなっている。 今川氏の軍勢は寄親、寄子制をとっており、今川の部将などの寄親の武士の下に地侍層が寄子として従い、その地侍が兵卒を連れるという構造となっていたため、寄親がいなくなると、配下の寄子は統率を失うという弱点を持っていた。 かくして、今川義元の討死という不測の状況下にあって、徳川家康の目指す場所は駿河ではなく、岡崎であった。駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえて岡崎に入ったのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、氏真ではたちいかないと判断したのではないか。氏真は一説には暗愚な人物とされるが、そうではなく桶狭間合戦後に功績のあった岡部元信に所領を安堵し、領国経営をなんとかやっていこうと努力する面もあった。しかし、氏真は偉い親父が腐心して支えてきた駿河、遠江、三河を守り抜く度量のある人物ではなかった。それをいち早く見抜いた家康は、岡崎にとどまり時節を待ったのであろう。 それでは、岡崎に戻った徳川家康は、いかにして自立し、東海に覇をとなえるようになったのであろうか。それについては次回。 松戸市小金にある西山浄土宗の寺、東漸寺は、今でも大きな寺であるが、かつては隣接する小金小学校が学寮であったように、寺域も広く、小金の宿場町の中心にあって、東葛地方はもとより、東京都東部、埼玉県まで関連寺院などもある寺であった。 この東漸寺、文明13年(1481)に、増上寺三世の音誉聖観上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。ほぼ同時代の人で、浄土宗の宗門に勢誉愚底上人という高僧がいるが、その人は京都出身、のちに三河松平家の菩提寺となった岡崎の大樹寺を開基し、京都知恩院の第二十三世となったが、もちろん経誉愚底上人とは別人である。しかし、名前が似ているために混同されることがあるようだ。 法然上人以降の浄土宗の宗門のなかで、知恩院、増上寺の住職ともなれば、高僧であったに違いないが、その増上寺三世の音誉聖観上人の弟子である経誉愚底上人、また自身が知恩院二十三世となった勢誉愚底上人、ともに宗門を代表する高僧といって良いだろう。 この経誉愚底上人は、遠州出身という説もあるが、信州筑摩郡洗馬出身、父は長瀬但馬守という武士で、その先祖は木曽義仲の家臣か、とにかく木曽氏に関係していたらしい。その経誉愚底上人自身は音誉聖観上人に師事して洗馬東漸寺で教化、下総は手賀沼沿岸の鷲野谷にいたり、鷲野谷にもともとあった医王寺が廃絶し、村人がその薬師如来を小さな堂にまつっているのをみて、村人と医王寺を再興した。特に、鷲野谷の土豪で、高城氏の家臣となっていた染谷氏が経誉愚底上人を尊崇し、浄土宗に帰依したという。この経誉愚底上人が高城氏の居城根木内城に近い場所に、東漸寺を開創したのも、高城氏の家臣であった鷲野谷の染谷氏がおおいに関わっていたと思われる。実際、染谷氏が経誉愚底上人が仏像を背に根木内に赴いた際に、捧持したという。 さらに、東漸寺は、戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていた。 高城氏は、出自不詳。出身も九州説、紀伊説、東北説とあり、よく分らない。千葉氏の重臣原氏の家老であったのは間違いなく、東葛地方、現在の松戸、流山、柏、鎌ヶ谷、船橋、東京都東部、埼玉県東部を拠点にし、戦国時代末期には戦国大名化していた。東葛地方に拠点をおいたのは室町時代の途中からで、それ以前は原氏とともに小弓(生実)辺りにおり、「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。原氏が上総の武田氏や小弓公方足利義明によって、かの地を追われると、縁故のある八幡庄に落ち延びたらしい。 その居城は(栗ヶ沢城、)根木内城、小金大谷口城とかわったが、最近の研究では根木内城を高城氏が居城としていた当時、すでに小金城の前身の城(前期小金城)が存在していたようだ。前期小金城は、現在公務員住宅のある大谷口跡に近い、「本城」「中城」「馬屋敷」「外番場・西側」の郭構成であり、その主郭と見られる「馬屋敷」の西側下に「根郷屋」の地名が残る。これは、当初は根木内城の支城の位置付けの小規模な城郭であったことを意味する。 やがて、高城氏が小金大谷口城を拡張・整備し、それを居城にすると、根木内から城の近くに寺院なども移転する。東漸寺以外にも、高城氏の祈願所であったという大勝院は城の一部といえる東北の鬼門の方角に鎮座した。東漸寺は屈折した参道、参道の両側の土塁など、防備を考えた作りで、位置的にも小金宿の中心にあり、町場を守る役割を担っていた。これは中世の寺にはありがちなことで、石山本願寺などは寺というより城に近いし、寺の石垣も城の石垣を組む穴太衆がつくったものがある(坂本の西教寺など)。 胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。小金における高城氏は、胤吉−胤辰−胤則と続いたが、天正18年(1590)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名として滅亡した。 その後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598)に芝に移り、元和元年(1615)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。 このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。 明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。 幕末は元治元年(1864)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖の子藤田小四郎らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。竹内廉之助の変名は「金原忠蔵」。これは、小金原を苗字としたもの。赤報隊には現在の鎌ヶ谷市佐津間出身の渋谷総司がいたが、渋谷総司の「総」も下総の「総」である。 しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。 竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。 本土寺は、松戸市の北小金にある、日蓮宗の古刹である。このあたりは、平賀という地名が残っているが、もとは平賀家の屋敷がこの本土寺が創建される前に、本土寺がある場所にあったという。1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、1277年(建治3年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。<本土寺の仁王門> そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。さて、小生柏に旧陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機「秋水」の実験隊員だった方々の話を聞きに行く途中、久しぶりに本土寺へ寄った。境内は、まだ紅葉が本格的でないためか、あまり人がおらず、逆にゆっくり散策できた。長い参道を抜けると、目に入ってくるのが赤い仁王門である。「長谷山」の扁額が掲げてある。ここももみじに映えて、赤い門が美しい。本堂に上がる前に、見落としがちであるが、「翁の碑」がある。この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の1804年(文化元年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものである。ラグビーボールを大きくしたような変わった形をしており、「翁」と刻まれている。碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれているそうだが、字がうすくなって判読できない。「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」というのは読めた。実は寺も含めて、江戸時代には俳諧の趣味が、経済力をもった町人などを中心にはやり、この寺でも句会が催されている。小林一茶も出てきているそうだ。この本土寺のほかに、北小金の水戸街道にちかい妙典寺にも句碑がある。妙典寺は、やはり日蓮宗であるが、中山法華経寺の末寺である。<「翁」の碑> そして、本堂に参り、順路にしたがっていくと、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家から武田の名跡を継ぐために武田を名乗り、小金三万石の領主となった。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまう。結局、武田家を存続させようとした徳川家康の思ったとおりにはならず、再興武田家も信吉の代で絶えてしまった。息子が小金三万石の領主になったため、その生母秋山夫人の墓が、甲斐とは離れた小金の本土寺にあるのである。秋山夫人の墓を過ぎて、少し下り坂になり、菖蒲池に出る。その周りを半周すれば、日像菩薩をまつる像師堂のある場所となる。像師堂の近くに、稲荷と、1804年(文化元年)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑があり、表に、今日庵元夢の「世は夢のみな通ひ路か梅の花」裏に、藤風庵可長の「秤目にかけるや年の梅椿」 とある。<秋山夫人の墓> 本土寺は6月頃はあじさい、春には菖蒲も美しい。広い菖蒲池は、春から夏にかけてが良いだろうが、清々しい。そして、秋は紅葉である。今回、その菖蒲池の周辺と、瑞鳳門の辺にわずかに、紅葉がみられた。11月下旬くらいは、もっと鮮やかになるであろう。また、来るのが楽しみである。<瑞鳳門> 前に松戸市は小金の鹿島神社に彼岸花が咲いていたことを、「古城の丘にたちて」外伝のほうに書いた。それは9月26日であったのだが、そのころ既に萎れている花も多かったようだ。 東京での短期の仕事を終えて、10月から愛知に帰ってくると、まだ彼岸花がかなり咲いている。萎れてしまったのもあるが、東京近辺より愛知のほうが時期が遅いのだろうか。 岩滑の矢勝川の土手には、たくさんの彼岸花が植えられていて、前の日曜日に行くと川沿いを散歩したり写真を撮っている人が大勢いた。 岩滑でこれだけ彼岸花が矢勝川の土手に咲いているのは、新美南吉が歩いた岩滑の矢勝川の土手に彼岸花を植えて彩ろうと、市民の手で植えられたという。1990年、新美南吉を愛する地元の人たちから、「南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンバスに、彼岸花で真っ赤な風景を描こう」という発案がだされ、その運動が半田市と新美南吉顕彰会を巻き込んで広がった結果である。 彼岸花は、秋の彼岸のころに咲くから彼岸花。だいたい、川の土手とか、田んぼのあぜ、お寺の横の路地や墓地などに咲いていて、不思議に心象風景に残る。別名を曼珠沙華というが、これは梵語で「天上の花」を意味するそうだ。 しかし、黄色い彼岸花もある。これは、鍾馗水仙という。キツネノカミソリというのも、この仲間か。半田の石川橋の近くの土手には、黄色い花と赤い花が混じって咲いていた。 ところで、彼岸花には毒性がある。それで、田の畦や墓地などに植えられて、小動物などが荒らさないようにしたため、今もそういう場所に生えているわけだ。 なお、小生、田舎で彼岸花は寺に隣接する墓地や土手などに咲いているのを見知っていたが、言ってみれば雑草であり、生えている場所柄、ソウシキバナ、ユーレイバナというような名前で呼ばれていたように記憶している。ハカバナとも言ったかな。とにかく大人では、縁起が悪いと忌み嫌っているような人がいた。昔は毒性を利用して蝿取りに使ったのか、蝿取り花(この呼び方は群馬だけらしい)という呼び方もあるようだ。だから、子供のころは彼岸花があまり好きではなかった。 しかし、20年くらい前に、鎌倉のやぐらの傍に彼岸花が咲いている様子を見て、なんとなく心惹かれるようになった。それは、のどかでもあり、世の無常を語っているようでもある。 京都の中心を流れる鴨川、この鴨川は出町柳の加茂大橋のところで、高野川と合流しているが、その地点より上流を加茂川と表記する。別に川としては同じなのであるが、上流と下流で呼び方が違う。 鴨川といえば、夏の夕方になると川風で夕涼み、ニ条から五条にかけて、川の西岸の店が川に向かって床を伸ばす、納涼床が有名。公害が問題になっていなかった昔は、鴨川で友禅流しも行われていた。下流の鴨川のほうはともかく、加茂川はまだ自然が残っており、鷺などの水鳥もすんでいる。 「扇おしろい京都紅」というと、京都祇園や先斗町に行き交う舞妓さんか、芸妓さんを思い出す人も多いだろう。筆者も一度だけ、先斗町歌舞練場まで「鴨川をどり」を見にいったことがある。小生、阪神間に住んでいた頃に、よく京都に来ていた。古い都へのあこがれもあり、寺をまわるのも好きだったので、自然そういう生活になった。但し、先斗町や祇園は歩くだけで、舞妓さんも歩いている姿を見るだけである。せいぜい、夕方になると、木屋町の焼き鳥屋さんで飲んで帰ってくるくらいで、祇園などにはまったく縁がない。今回も書きたいのは「鷺しらず」のほう。 ここに出てくる「鷺しらず」とは、昔の加茂川のお土産として売られていた、佃煮の一種である。鷺は、川などで小魚や両生類、昆虫などを捕まえて食べているのであるが、最近は護岸工事とかで鷺が住むような河川もだいぶ減ってしまった。その鷺といっても、青鷺もいるが、白鷺が殆どである。 「白鷺は小首かしげて水の中」と高田浩吉の白鷺三味線でも歌われているが、鷺はたいてい水の中にいる。鷺は加茂川でも、細い脚でたって、時々水面にくちばしを突っ込み、えさをついばむ。川幅が狭く、流れの急な場所とか、岩場にはあまりいないようだ。 白鷺は、知多半島でも田んぼのなかや、ちょっとした川によくいるし、河和の軍港跡にもいるのを目にしたが、以前兵庫県に住んでいたときにも、芦屋川の上流などで見かけた。さすがに東京では見たことがないが、千葉では今でも田んぼや沼地などにいるようだ。 「鷺しらず」は、水の中で朝からえさをついばんでいる鴨川の鷺も、見落としてしまうほどの小さい魚、鮠 (はや、はえ)の稚魚を、煮たった湯に通して、薄口しょうゆ・砂糖で煮つめたものである。それが、有名な、京都名物の「鷺しらず」であった。「鷺しらず」は今でもあるようだが、鴨川も、護岸工事などで、現代的な川になってしまい、小魚も住みにくくなったため、京都みやげの代表の座から、おりてしまっている。 鮠 (はや、はえ)は、コイ科の淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称であるが、オイカワ、ウグイなどが代表品種である。鮠は「柳鮠(やなぎばえ)」という季語もあるように、柳の葉の芽吹く春に川を上って産卵し、夏にその稚魚が川を下りるという。 「鷺しらず」は幕末からつくり始められたというが、残念ながら今では殆ど作られなくなった。実際小生、これを買ったこともなければ、売っているのを見たこともない。京都の高島屋で、川端道喜のちまきを買おうとして、買いに来たときには、いつも売り切れていたという小生にとっては、幻の佃煮かもしれない。 去る2006年4月30日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の「地域史を語る会」の延長で、Nさん、Yさん、筆者の有志3名は、旧沼南町箕輪にある箕輪城址を訪ねた。この件については、以前簡単にしか紹介していなかったので、この機会に以前訪ねた時の内容を紹介するものである。 当日昼前に、沼南公民館で待ち合わせ、筆者の車の運転で箕輪城址のある手賀沼病院まで行った。この箕輪城は、手賀沼南岸の旧沼南町庁舎の近く、大木戸交差点辺りから北へのびる五条谷台地を新道沿いにしばらく行き、「五条谷」のバス停付近で左に入り、手賀沼方面へ北上した台地先端部にあった。その台地の北側下は水田のある低地となっているが、それは近世の干拓によるもので、中世においては台地の下まで手賀沼の水面が迫っていた。 前述の通り、今は城址には手賀沼病院が建っているが、思っていたより遺構が残っている。台地先端部は東西に広がり、台地北西と東南に小谷津があって、台地へ入り込んでいて、城があった場所は、その谷津で東南へ斜めに首を振った形になっている。現在、城址西側には手賀沼病院が建っていて、主郭である第1郭の中央部分が駐車場となり、第4郭全部と第3郭の西よりの一部が病院の建物や機械設備などが建って破壊されている。 我々は手賀沼病院の駐車場に車を止めた後、まず駐車場の脇にある第1郭の土塁に登って、周辺を見て歩き、第1郭から南側の第2郭、さらに第3郭と、殆ど山林のなかというような場所を堀底におりたり、土塁に登ったりしながら踏査した。ただ、第1郭の北側は急崖で入ることができず、あとでYさんが北側の低地面から城址を見てみたいと言ったので、最後に車で回ろうとしたが、意外に交通量が多く、止める場所もなかったため、そちらからは見ていない。 今回、昭和57年の実測調査にも加わったNさんが案内してくれたので、以前の様子との対比も含めて遺構の成り立ちが分かりやすかった。また、Nさんの足のはやいこと、第1郭の東の堀を藪をかき分け降りていって、二重土塁になっているのを確認してくれたが、Yさんも筆者も、そこまではついていけなかった。 第1郭は城址中心から北東に位置し、北側は後世の土取りによって急崖となり、その部分の遺構も失われているが、東南を除くと一辺60mほどの方形であるのに、東南部があたかも嘴のように突出していて、かつてはその50mほどもある嘴部分の内部は堀のように深くなっていたという。そのような嘴状になっているのは、その南側に横たわる土塁が古墳を利用したものであり、古墳の原形はわからないが、その形状に規定されているためである。 現存する遺構は、第1郭の南側古墳を利用した土塁(一部削られている)、嘴状の東南の突出部、東側土塁と第4郭と境界を形成していた西側土塁の一部、東側、南側を取り巻く空堀、第1郭の南側にある第2郭全体とその南側にある空堀と土塁、第1郭、第2郭の嘴状となった東側先端部を結ぶ腰郭、第2郭と西側にある第3郭の間にある空堀、第3郭の東側の土塁の一部、南側の土塁、空堀などで、その殆どが台地の傾斜面に近い山林の中にある。 前述したように、当城址は西側、特に第4郭のあった部分に病院が建ったために、半分程度破壊されているが、主に東側に残存する遺構が往時の様子を伝えている。この城の築城時期は戦国期の何時ごろか正確には不明であるが、戦国末期に大幅に改修が加えられたことは間違いなく、非常に凝った作りとなっている。 第1郭は南側の中央部分に虎口があり、南の第2郭との間の空堀には土橋(実測調査で植竹好明氏が微妙な土の盛上りから土橋ではないかと指摘、その後の発掘時に確認された)がかかって連絡しているが、第1郭の東南部の嘴状となった郭の延長部から横矢がかけられるようになっている。東南部の嘴状となった部分の南側の土塁は古墳を利用したものであるが、基底部8〜9mで4〜5mの高さがあり、第2郭との間の堀も薬研堀となって深さ4m以上あった。第1郭の東南部の嘴状となった先端部の外側には小さな平場があって腰郭と認められる。東側土塁を北へ進むと急崖となって土塁がなくなるが、これは後世の土取りのためで、かつては北側にも土塁が回っていたと推定される。東側土塁の下も急斜面であるが、15mほど下ったところに土塁があり、二重土塁となっていた。 また、西側のなかほどに方形に突出した(土塁も凸形になっている)場所があり、第1郭と第4郭の間の空堀に侵入した敵に横矢を掛けられるようになっている。Nさんの話では、この突出部は、以前はもっと顕著だったそうである。突出した場所から10mほど南に土塁が切れている部分があり、後世にあけられたものの可能性もあるが、そこが虎口とすれば、突出した部分は虎口の防衛を行うためのものであったと思われる。そして、今はない第4郭の東側、第1郭西側の突出部分に相対する部分は凹形にへこんでいた。さらに、その南側には独立小丘があったが、そこからは第1郭との間の空堀に入った敵に矢を射かけることができ、さらに西側の第4郭南西に開いていたらしい虎口を守る役割を担っていたと思われる。 第1郭の南にある第2郭は、第1郭の嘴部分と対称形で北東部分が鋭角に突出し、その頂点から約70mほど進んだ地点にある南側の中央部分を頂点とした逆三角形の西北側に約40m四方の方形がついた変形5角形のような形である。東側先端部の南側の一部と西北側の方形となった部分にしか土塁が残っていないが、かつては全面土塁で囲まれていたと思われる。南側は急斜面であるが、郭の南側には3〜4mほどの深さで空堀がめぐり、さらにその南に土塁がめぐっている。 第2郭と第3郭の間にも深い空堀があって、郭を取り巻く土塁とあいまって区画されるが、第2郭の二重土塁の外側の土塁は、第3郭の南側土塁に連続していたと思われる。第3郭の南側には土塁が現存し、南東隅の土塁の屈曲部分と西側にあった虎口脇の円形の高所部分は、やはり古墳を利用したものであった。西側古墳は今では何かの倉庫がたって失われているが、南東隅の古墳は現存し、今回の踏査の際に盗掘か何かで掘ったような穴が見られた。南東隅の屈曲部分は古墳として確認されていたわけでなかったが、今回盗掘跡のような穴の周りに埴輪片が落ちていたことから古墳と分かった次第である。第3郭の南側にも3〜4mの深さの空堀があって、堀底をたどって西に進むと、さきほどの西側虎口に出る。 実は以前の調査で、第3郭の南東側の台地南の低地に小道のような硬化面が見つかったが、それが実際に道でずっと続いていたとすれば、あるいは台地の南側から南東側の、かつての手賀沼の入江状になった部分に沿って船着場があったかもしれない。なお、硬化面が見つかった第3郭の南東側低地から北へ進むと第2郭の二重土塁の外側土塁に阻まれ進めない。そこで、西へ70mほど堀底を通って、西側虎口より第3郭に入り、東へ進むと第2郭との間の空堀があって土橋で連絡する虎口となる。第1郭へは、さらに前述の第1郭と第2郭の間の空堀にかかる土橋をこえて、虎口から第1郭へ入ることになる。また虎口へ入る際には横矢掛けの工夫が随所になされていて、戦国末期の城の特徴がよくあらわれている。 なお、以前の発掘調査で堀のなかから応永16年(1409)銘の宝筐印塔が出土しているが、それは破城の儀式のために故意に堀に入れられたものであるという。 箕輪城をまわった我々は、さらに船戸古墳群の一部の古墳と柳戸砦址も見学した。柳戸砦址のある下柳戸の集落は、近年まで一つの井戸で集落全体の水をまかなっていたという。この辺りも興味がつきないのであるが、長くなるので、この辺で。 群馬県の桐生市は、小生の親戚も多く、昔からよく知った土地で、小生にとってはフレンドリーな地域である。 この桐生には中世、桐生氏がいて、周辺を支配していた。今は昔で、あまり最近は出回っていないが『桐生城物語』(松島正見著)というのがあって、桐生氏の初代といわれる桐生六郎から戦国時代の英君である桐生祐綱、その末期養子であり、政治に関心がなくなり家老の専横を許したという桐生親綱までの興亡が物語風に書かれていた。 その本を読んだのは、中学生くらいであったが、面白くてのめりこんだ記憶がある。なお、著者である松島正見氏は桐生や周辺地域の歴史についての研究家で、高津戸城に拠った里見兄弟についての著作もある。 この桐生氏初代の桐生六郎は、源平合戦の頃、関東の武士たちのなかで有力な平家方であった、藤姓足利氏の足利俊綱を主人としていた。桐生六郎は、その足利俊綱を謀殺、源氏に返り忠を果たした。しかし、その桐生六郎の主人への裏切りを源頼朝は許さず、これを処刑し、その子孫は四代目にいたるまで桐生梅原館に蟄居した。 その後に登場する桐生国綱は、従来四代目の宣綱といわれる当主の子で、桐生五代目とされてきた。したがって、桐生氏は途中何代かに渡り、佐野の佐野氏から養子をもらったが、系統としては桐生六郎から連綿として続くものと通説になっていたし、私もそう思っていた。この国綱は足利尊氏に応じて戦功をあげ、桐生川一帯の地を与えられたという。また、桐生城を築城し、仁田山地域の城を攻め、高津戸城を手中におさめたのも、桐生国綱の代であった。 ところで、最近の研究によれば桐生国綱は佐野氏の出身で、その子孫もまた佐野の血をひく者たちであり、桐生佐野氏というべき氏族であることが分かってきた。この国綱までの桐生氏を前桐生氏、国綱以降の桐生氏は後桐生氏といわれる。つまり、桐生六郎らの桐生氏は桐生を根拠とした武士であることは間違いないが、それは主人である藤姓足利氏と同族かもしれないにせよ、出自は不詳である。かたや桐生国綱は佐野氏の出身であることがわかっている。つまり、その前桐生氏と桐生国綱から始まる後桐生氏、あるいは桐生佐野氏は別氏族であったらしい。そして、後桐生氏、桐生佐野氏こそ、桐生に一大勢力を築き、戦国時代まで大名として続いた、一般にいわれる桐生氏であり、その祖が桐生国綱であったのである。 桐生国綱は、観応元年(1350)、谷直綱に命じて城山(じょうやま)に桐生城を築き、平時は城山の南麓に居館を建てて住んだ。また、翌観応2年(1351)には高津戸城などの城主であった山田筑後守則之が、密かに桐生を侵略しようと企てていたのを、桐生国綱は先手をとってこれを攻め滅ぼし、領地を西側渡良瀬川沿岸に広げた。国綱は、桐生南部の開墾や桐生氏菩提寺の西方寺の創建など行っている。 その桐生城は桐生川によって形成された桐生谷の内奥の城山にあって、檜杓山城とも呼ばれる。檜杓山城といわれる所以は、本丸を斗口とし、二の丸、三の、丸を柄とする檜杓に形が似ていることであり、それで檜杓山城と名付けられ、階梯式の連郭配置となっている。途中まで、車で行くことができるが、比較的山頂近くまで車で行くことのできる高津戸城などとは違い、桐生城は山の中腹までしか車ではいけず、あとは急な崖から落ちないように気をつけながら山道をいくしかない。特に、三の丸と二の丸の間の堀切は山の斜面に蜀の桟道のように開かれた通路の一部として使われているが、なぜか堀切の先、急崖となっている箇所に柵が設置されておらず、まっすぐ進むと崖、回れば通路となり、高所恐怖症のひとなら絶対に進むことができない。以前は山麓の日枝神社から尾根伝いに登ることができたと思うが、今は尾根伝いに登る人はいないだろう。小生車で途中まで登ったときに、なぜか山を降りてくるダンプカーとすれ違い、路肩ぎりぎりに寄せたことがある。車ごと転落して死ぬかと思ったが、運転手さんの「俺が見ててやるから大丈夫、落ちやしねえよ」という言葉に励まされ、何とか無事であった。 それはともかくとして、桐生地域では、梅原館を中心に新川堀を遠構、丸山の砦、今井宿、浅間山、物見山を前線基地とし、桐生城を詰めの城とした地域城が形成されていた。さらに、桐生氏最盛期には、小倉の砦、用命の砦などの周辺城砦と仁田山地域城の仁田山城、高津戸城などの要害や黒川谷の深沢城、五蘭田城などを含めた広域にわたる防衛線が築かれていた。 桐生城は、前述したように城山頂上を削平した場所が本丸、その西下に二の丸、三の丸と階梯式に郭が続き、二の丸、三の丸の北側には北曲輪がある。本丸の南側、城山山麓の渭雲寺(居館:「いだて」の地名が残る)、日枝神社あたりには城主の日常居館があって、館と背後の桐生城との間には通路があり、途中坂中曲輪、追手がある。一般的には、その道が追手道とされているが、傾斜が急で馬が上れないため、傾斜の比較的なだらかな岡平から三の丸下に出る西搦手が通路としてよく使用されたようで、桐生城攻めでもその場所から由良勢に集中的に攻めかかられている。また、岡平にも、別郭があったと見られている。水の手は、居館北西の小流を使用していた模様で、居館西側にも井戸があった。 桐生国綱以降、戦国期の途中まで桐生氏がこの城を支配したが、元亀4年(1573)に由良氏に攻められ、桐生城は落城、当主親綱は佐野へと落ち、以降由良氏の城となる。その由良氏も小田原北条氏について小田原籠城戦を戦ったために、牛久へ移封となり、桐生城は廃城になった。 桶狭間合戦の織田勢の勝因、言い換えれば今川勢の敗因については、「桶狭間古戦場を行く<中編>」で大体述べた。すなわち、「今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。」と書いた通りである。 しかし、織田勢が勝った理由は、それだけであろうか。いくら地理的な条件や自然現象が有利に働こうと、いち早く的確に情報を握っていようと、実際に戦闘局面で生かせなければ意味がない。その用兵の面でも、織田勢が勝つ要因があったと思われる。 今川義元が討死した当日の様子を振り返れば、以下の『信長公記』の記述にあるとおり、織田信長はわずかな手勢を率いて清洲を発ち、熱田を経て、鳴海方面へ突っ走っている。そして、丹下の砦にまず入り、次に善照寺砦へ移っている。 「浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」 信長が善照寺砦に入ったのは、鳴海城と数百メートルしか離れていないのであるが、善照寺砦が鳴海、大高両城に対する付け城五砦、すなわち丹下、中島、善照寺、鷲津、丸根のうち最も大きく、今川勢に対する前線基地として兵力を集中させるのに最も適していたからである。しかし、清洲からいち早く善照寺砦に移っていれば、今川勢先遣隊との小競り合いなどで兵を減耗させてしまいかねなかった。 信長は、合戦当日の5月19日なってはじめて、清洲を出て、善照寺砦に入ったのである。ちなみに、善照寺砦や次いで信長本隊が入った中島砦も、今川勢先遣隊からは見渡せる位置にあり、信長本隊の動きも今川勢の知るところであった。この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあり、この砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであった。ゆえに、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいた。 では、信長が善照寺砦に入ったことを知った千秋四郎・佐々隼人正が今川先遣隊にぶつかっていった行動は、単なる抜け駆けの功名を目指したものであろうか。300人といえども貴重な兵力であったはずである。それをなぜ、今川先遣隊との戦いに振り向けたのだろうか。 これは、信長が善照寺砦に3,000名の兵を集結させながら、1,000名を残し、2,000名を率いて義元本隊を目指したのと関係している。つまり、信長本隊は善照寺にあって、千秋・佐々の別働隊を今川先遣隊にぶつけ、鳴海近くに出張っていた今川先遣隊を善照寺砦に引き付けておいて、自らは中嶋砦を経て、一直線に「おけはざま山」を目指したのである。信長は、千秋らの戦いを見届けてから、善照寺砦を出ている。あくまで、信長本隊は善照寺砦にいるように見せるためと、もし今川先遣隊が千秋・佐々の別働隊を破り、余勢をかって善照寺砦に押し寄せた場合に備えて、善照寺砦に1,000名の兵を残したのであろう。 ここで、信長が今川義元の首級を最初から狙っていたかといえば、そうではなく直接的には今川本隊のどこかを襲って混乱させ、それに乗じて本隊の戦力低下のダメージを与えるということであったと思われる。さらに、鳴海城包囲陣で、鳴海城を奪回することも当然考えていたであろう。信長にとって幸運にも、今川先遣隊から義元本隊に信長本隊が移動して迫ってきている旨、伝達される以前に、信長本隊は義元本隊を捕捉した。これは、まさに願ってもいない千載一遇の好機であった。 今川義元の部隊は、延々と駿府から行軍してきたのであり、兵力がまさるといっても小荷駄隊などを含んだ人数がまさっているだけであり、実際の戦闘要員は義元本隊が5,000名として、うち1,500名程度に過ぎなかったという。それに対し、信長本隊は戦闘要員ばかりの2,000名である。彼我の戦闘能力は、本隊同士でみれば織田勢のほうが勝っていたといってよい。メンタル面でも、駿河、遠江、三河の混成軍団である今川勢とくらべて、織田勢のほうが結束力が強く、士気も高かった。したがって、戦闘自体で信長本隊が勝ったのは、何ら驚くに値しないのである。 問題は、今川方がなぜ「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし」ということが分かっていて、わざわざ「おけはざま山」を陣地としたかである。5月17日には瀬名氏俊が桶狭間に来て陣地を設営したのであるが、もとより、今川義元の塗輿での往来は2m程の平面、2〜2.5mの高さの空間が必要であったのは前記の通りである。それだけでなく、地盤の悪い低湿地や渡河に労力のかかる場所は避けたと思われる。沓掛から阿野を経て大高道を大高に向かっている途中のどこかで休憩をとるならば、当時村があったのは大脇、桶狭間くらいしかない。桶狭間と大高の間にも江戸時代には集落ができるが、それは新田開発に伴ってのことであろう。人家があって飲み水などを分けてもらうことができる、兵を休ませるのに都合の良い平地、または緩やかな斜面がある、塗輿で来た義元一行が進軍できる道が麓にめぐっている、大将が先遣隊のいる高根山や鳴海方面などを見渡せることができるというと、やはり本陣をおくのは「おけはざま山」と今川方は考えた。 桶狭間特有の台地と低地が入り組み、幕山などと「おけはざま山」の中間にあたる低地には深田や鞍流瀬川などの水路があって通行しにくいという欠点は、大部隊の通行には大きな障害であり、それで義元本隊は台地上で歩きやすい近崎道を行ったのであろう。間に低湿地があることは、本隊と先遣隊のいる高根山、幕山、巻山との連絡においても不利であったが、数名の使者が往来する程度であれば、大きな問題にならなかった。しかし、今回は信長本隊の攻撃に際して、先遣隊が今川義元本隊に急ぎ合流するような機敏な対応が必要であったが、それが桶狭間の地形からしてうまく出来ない状況にあった。今川勢は、自らを逃げ場のない袋小路に追い込んだといっても過言ではない。もし、太原雪斎禅師が生きていて軍師を務めていたら、このような誤りはおかさなかったに違いない。 織田勢の急襲をうけ混乱した義元本隊は、「おけはざま山」を降りて、田楽坪に出たが、彼らを待っていたのは今川先遣隊ではなく、先回りした織田勢であった。塗輿を目印に本隊の位置を確認された今川義元は塗輿から馬に乗り換え、旗本に守られて、本来の行き先である大高方面に逃れようとしたようである。そして、取り巻く旗本が減っていくなか、最後は自ら太刀を振るって戦い、服部小平太の膝頭を切り割ったが、毛利新介に討ち取られた。海道一の弓取りといわれ、足利尊氏と同じく治部大輔から三河守となった今川義元が、このような最期を遂げたことは、その当時の人に衝撃を与えたであろう。自ら太刀をふるって奮戦し、最後に討ち死にしたのは将軍では足利義輝、守護大名では今川義元くらいである。 かくして、おそらく織田信長も予期していなかった今川義元本隊の偶発的な崩壊と義元自身の戦死によって、幸運にも織田信長は勝ちを拾った。今川義元の戦死は、今川全軍に伝わり、即日退却する将兵が多かった。大高城の松平元康、のちの徳川家康には、一説によれば、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。しかし、これは真相がよくわからず、大体桶狭間合戦での緒川・刈谷水野氏の動向が今ひとつ不明であるから、なんともいえない。確かに織田方に水野帯刀や梶川一秀(あるいは大脇の梶川氏と関係ないかもしれない)といった水野氏系と見られる人は登場するが。 それはともかく、大高城の松平元康や鳴海城をよく守った岡部元信以外の今川方武将は今川義元の戦死を聞き、さっさと撤退してしまった。この時の様子を『信長公記』や『三河物語』は、以下のように書いている。 「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、五ヶ所同事に退散なり。」(信長公記) 岡部五郎兵衛とは岡部元信のことであるが、岡部元信は鳴海城をよく守り、義元討死の報に接して沓掛の入番衆たちが早くも撤退したあとも持ちこたえたが、信長に降伏して一命を助けられた。そして信長に要請して、今川義元の首級を駿河に持ち帰ったという。いずれにせよ、前線にいた今川将兵は撤退するか、織田方の捕虜となったかで、戦線は崩壊した。 そして、すでに桶狭間合戦が始まる前に家督を継いでいたという今川氏真が、復仇のいくさを織田信長に対して仕掛けることもなく、松平元康が岡崎城を「拾い城」として入城し、自立するとともに、甲斐武田氏が領土を侵食、家臣団も分裂していくという事態へと転げ落ち、いわば自滅する形で今川家は戦国大名としての地位を失っていく。もし、今川義元のあとを継いだのが義元クラスの一級の武将であったなら、こうした事態にはならなかったであろう。これも、織田信長の強運なところであった。 今川義元以下、戦死した今川方の将兵の菩提は、桶狭間の長福寺や近隣の寺院などでも弔われている。大脇の曹源寺二世の快翁龍喜和尚は、水野貞守以来水野氏配下の部将であった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったというが、その快翁龍喜和尚は桶狭間合戦後、戦死した今川将兵の引導供養をし、その配下の僧が戦死者の埋葬の指揮をしたという。戦人塚は、その埋葬の場所というが戦場から離れすぎており、山の頂上のような場所で埋葬に適していると思えない。これは、その故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。桶狭間古戦場公園の近くに、七つ塚という埋葬伝承をもつ塚があるが、そちらのほうが戦死者の埋葬場所としてリアリティがある。 それでは、徳川家康は如何にして、今川家から独立していったのか、次回以降その過程を探っていくことにしたい。 |
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